pixivboothでマグカップの通販はじめました
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レンタルCDの返却が迫っていたので、かりたCDをききながら返却に行きました。
Karl HydeのEdgelandというCDですが、
ツタヤまでの無駄に広くて殺風景な夜景にマッチしてとてもよい散歩ができました。
公式の文章では
「
減衰していくことの美しさ、タイヤの痕、雑に描かれたグラフィティ、工場の喧噪、漏れ聞こえる会話、流行するカフェ、眠らないドライバーが運転する車の後部座席に身を沈め街を走る夜。『Edgelands』とは、田舎と街が交差する場所であり、みすぼらしいポニーが人工的に増殖された草原の草を食べ、空気が汚染された場所... 僕の旅を形作ってくれた人々のストーリーと彼らの個性を祝福するものだ」
とのことです。
こういう風景いいですよね。開放感と寂しさがあります。
正直、underworldは自分の趣味より元気がよすぎるような気がして、あんまり積極的にきいていなかったのですが、これを気に新譜とかもきいていこうとおもった次第でございます。
展示用にかいたキャプションを公開します。
自分が惹かれる生活観のある廃墟的なニュアンスの建物などについて
人に説明するつもりでかきました。
長いので以下よりどうぞ。
展覧会タイトルの「ねずみまち」は、迷子の果てに迷い込んで、二度といけない「猫町」を踏襲しています。猫町という言葉はおしゃれです。猫は人に愛され、猫のいる町はいかにも平和です。ねずみも猫同様、人の暮らしに寄り添っています。
ただし、ねずみは見えないところで生活しています。
私はねずみが好きです。まず顔が私に似ていますし、フォルムがとても美しい。
個人の原風景かたちづくるものは、その者が生まれる少し前の「文化」であることがあります。
その理由は、デザインされた「モノ」達が、流行のデザインが古びてしまった後も、長く作用するからです。
古びてしまったある時代の「流行」が提示され続ける中で 幼児期にふれたそれらのモノは、個人の原風景として刻まれます。
つまり、原風景は、「先人達の時代のセンスに形づくられる」という単純な話です。
流行が過ぎ去り、センスの耐久時間が終わり しばしの忘却の後、
それらは今度は「懐かしいもの」として扱われるのだとおもいます。
しかしそのとき、「懐かしいもの」は、そのものの本来的な意味合いからみれば、死んでいるとも言えます。
街で、かつての笑顔のまま、もう扱っていない商品を宣伝し続ける看板の「幽霊」を見かけます。
懐かしさと希少性から、もてはやされる事もありますが、それは彼らが本来発信したいメッセージが受け手に届いたわけではなく、 死んだものが死んだものに手紙を出すように、現役だったころをなぞって過去の客にメッセージを発し続けているというわけです。
それはまるで「幽霊」のようです。
私が追う時代は1970年代で、当時の物の多くは既に「幽霊」です。
「このフォントが現役の物に印刷されていたらどんなに素敵だろう。」
そう思いながら多くの古書や、デッドストックや、廃墟と接してきました。
魅力的で美しい「幽霊」からは本当の意味で当時の空気を知ることはできません。
私は「幽霊」が生きていたときの姿を想像します。
おそらく、時代のセンスは、毎日、目に見えないほど少しずつあたらしくなるもので、
それぞれの変化が耐久時間をもち、それぞれが何年もかけてだんだん薄くなって消えていく、不透明度1パーセントのレイヤーを何百枚も重ねてできた猥雑な染みのようなものだと思います。
(入り組んだバラナシの路地で、私は行きかう人のうち何人かは現在ここにいるのではなく、 過去のいつかにこの場所を歩いた人なのではないかと思いました。
過去の目的地へ向かうかつての通行人も、受け手のいないメッセージを発信する看板も 新陳代謝の中にいるからこそ、怪談じみたりせず、健全に目的を果たそうとできるのだとおもいます。)
なので私は、現在と「幽霊」を対等に扱って、個人的な原風景を絵にかくことにしました。
「幽霊」のかつての姿は今の雑踏から抽出し、いまだ面影を残しながら新陳代謝をしている場所は、現在の姿を拝借しました。
すべて実際の風景を元にかきましたが、全て妄想です。実際には存在しない風景です。
そこに物は存在するのに、想像で補填しないと見えてこない70年代の雑踏は確かに痕跡があるのに、生きた姿を現さない「ねずみ」のような不確かさがあります。
角を曲がって広がる景色は「古雅で奥床し」い猫の町ではなく
見えてはいけない隣人が闊歩する、幽霊と現実の境目が曖昧な町です。